一晩明けて、少しは落ち着いて、考えられるようになりました。
まだまだ、なんとも言えない心境で、どう解釈したらいいのかわからないけど、
思い出を書き起こしてみます。
今から20年ほど前、自分は映画監督志望の高校生でした。
学校もつまらなく、サボっては小学生から通うミニシアター、シネ・ウインドで映画を見たり、漫画喫茶に通ったり。
手塚眞監督の「白痴」新潟ロケでのスタッフ養成のワークショップ、「にいがた映画塾」に出会ったのもその頃。
映画制作の楽しさを知り、自主映画を作り始めたころ、大杉漣さんと出会いました。
シネ・ウインドで開催された「大杉漣オールナイト」。漣さんが助演された映画のオールナイト上映イベント。
ゲストでいらしていただきました。
無謀な自分は質疑応答の場面で、「自主映画作ってるんで出てください!」と。
漣さんは「いいよ、本、事務所に送って。」と。
無策に発言した自分は、そこから慌てて脚本を書きました。それが漣さん初の自主映画主演作になるとも知らずに。
セリフは「かー」だけ、ある朝起きると、男はカラスになっていた、今考えると、どこかで読んだことのあるような内容の「黒いカナリア」と題した脚本を書き上げ、当時の事務所に送りました。すると、事務所社長から電話で出演OKの知らせをいただき、一介の高校生は慌てふためいて準備に追われました。
出来れば16mmで撮りたい。もちろんバイト代では足りるわけもなく、親に泣きついてローンを組んでもらったり、仲間内からカンパを集めたり。
台本にも不安を覚え、同じ町内出身で知り合いだった、ガイナックスの山賀博之監督に脚本の添削をお願いしたり。
撮影前に漣さんと交わした約束は、いくらでもいいからちゃんと「ギャラを払う」こと。
相場もわからず、3万円を用意し、撮影初日に渡しました。
2日間の撮影は怒涛のように終わりました。
その後にはイベント上映がシネ・ウインドであったんだったけかな、ホテルのロビーで、漣さん、田口トモロヲさん、塩田時敏さんに囲まれた記憶があります。
撮影後、事務所の社長から、カンパだと言って封筒をいただきました。
そこには現金で3万円が入っていました。
「ギャラを支払う意思をしめしたことが大杉は嬉しかった。」と
現像し、ネガ編、プリントはヨコシネさんが格安で引き受けてくれた記憶。
様々な人に助けられ、映画は完成。イベント上映や地方の映画祭で上映していただきました。
自分は、地元の大学に進み、なぜか、ラジオ局でのアルバイトを始め、自主映画を作りながらもラジオディレクターも始めていました。
その後、中退、上京、結婚、出産。
安定を求めた自分は、映画の道を諦め、ラジオ、テレビの世界に身を投じました。
映画を諦めた自分が悔しく、どう顔向けしていいものかもわからず、そこから数年の間は漣さんには連絡を取ることができませんでした。
NHKの「スタジオパークからこんにちは」だったかと思いますが、漣さんがゲストで出られる、スタッフの方から連絡をいただいたのはそんな時期でした。サプライズで手紙を書いて欲しいと。手短に、渋谷の制作会社でがんばっています、ありがとうございました。という手紙をFAXで送り、オンエアでアナウンサーさんが読み上げると、生放送で、漣さんは涙を流していました。
時を同じくして、冨永昌敬監督に出会い、監督ではなく、編集技師、カラリストとして映画の世界にまた足を踏み入れることになります。
そして、佐々部清監督の「ゾウを撫でる」で15年ぶりに漣さんに再会することになります。
あれは東映の撮影所だったかな、意を決して、ご挨拶に伺いました。
緊張でガチガチになりながら、何を話したかも覚えていません。
ただ、優しく笑ってもらったことは覚えています。
中田島砂丘での記念撮影では、集合写真とは別に、「田巻くん写真とろうよ!」と声をかけていただき二人で記念撮影。
映画に戻ってきてよかった、そう実感させてもらえました。
そして、去年。自分の会社を作り、テレビドラマでは、「光のお父さん」「居酒屋ふじ」と立て続けにご一緒。
ですが、自分は現場に出ない作品で、打ち上げでもすれ違い。
プロデューサーを通して、会いたいね、飲みたいね、と話をしておりました。
今年こそは、今年こそはちゃんと会って、酒を酌み交わしながらお話を。
そう思っていました。
ちゃんと、ありがとうを伝えなくちゃ。
そう思い続けてきた20年間でした。
もう直接お会いして、お伝えできる機会はなくなってしまいしたが、
いつか、またどこかで会える気がします。
あなたがいたから、あなたに出会えたから、この20年がありました。
様々な人に出会え、様々な作品に出会え、この仕事を生業にできました。
あの屋上から飛び立ったカラスは、きっとどこかでサッカーしてるんだろうな。
無言劇にもどっただけ。
本当にありがとうございました。
そうそう、俺も猫飼い始めたんですよ。
2018年2月22日
田巻源太
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2018.2.23 0:07訂正
初出時、塩田さんを塩田明彦さんと書きましたが、塩田時敏さんでした。
申し訳ございません。
あぁーあの頃そんなエピソードがあったんですね
返信削除制作班が違ったので知りませんでした
人生の出会いとわかれ、道を作ってくれた人だったんですね
福島さん、あざっす。
削除いろいろありましたね。
記憶の中なので、脚色されてるところもありますけどね。
自分にとっては、やっぱり映画の世界で生きる大きな一歩を後押ししてくれた、映画界のお父さんです。